11時半起き。講習はもう3時間目が始まってた。
脚の調子考えたのもあったけど、部活も休んだ。
パソコンだけしてた。課題埋める時間とか昨日ほざいといて結局今の今までなんもしてない。
いや、する気がない・・・
このストレスの原因も吐き出そうと思う。実は脚じゃないんだと思う。こっちじゃないか。
夜中だからまた変なこと書くけど、どうせ1週間もしたら流れるからいいんだもう。
一応俺は無事ではあるつもりだから、適当にさらっと流してくれればいいと思います。
ここ1年ぐらい「アイデンティティとはなんぞや」ってことについて1人で黙々と考えていたのですが、
どうしてもこれは自分1人でどうこうできるものじゃないというところで思考停止してしまうのです。
人としてこの世にある以上、自分以外の人("他人")と干渉しなければならない。
アイデンティティすらもその例に漏れない。アイデンティティの存在は他人の干渉があって初めて成立するものである。
人と話すの苦手な俺としては正直認めたくない事実な訳で。
前々から考えてたのはこうだった。
テストでものすごく頑張った。頑張ったけどもそんなに結果は良くなかった。
自分では「頑張った」と思っても、他人からは「悪かった」と思われる。
他人から「悪かった」と思われている以上、「頑張った」と認識されることは無い。
認識なくして存在はありえない。自分の中に「頑張った自分」というものが存在したとしても、他人の中には「悪かった自分」しか存在せず、「頑張った自分」の存在は認識されない。
認識に差があるってだけで、まだ自分の中には存在してはいる。こうなってればまだ良かった。
この前何気なく広辞苑で調べてみて、何かが崩れていく感じでした。
広辞苑によれば、「人が一個の人格として時間的、空間的に存在し、それが
他人や共同体にも認められていること」とあるのです。
つまり
共通認識がなければアイデンティティそのものが構成されないと。
これは非常に困る。自己という確固たるものを認識するためのアイデンティティが、可変性の存在であっては、役割がまるで果たせない。
また例で示すとするならば、例えば俺は「長身」「陸上部」「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」などなど色んな性質があると言える。
「長身」というのは見ればわかるものだから認識されるとして、後ろのほうの3つなんかは内面的なものだから、実際に話して見なきゃわからない。
相手が「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」を認識してくれれば、ここに共通認識が生まれ、本来の自分として話すことが出来るだろう。
しかし相手がこの3つの要素を認識しなければ?例えば陸上部の人なんかと話しているときは、「長身」「陸上部」ぐらいしか共通認識がない状況になる。本来の自分は「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」でもあるのに、
相手はそれを認識しないので、この会話の場において「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」な自分は存在しない。相手が話しているのはあくまで「長身」「陸上部」である自分。なんだか他人と話されてる気分になりませんか。
しかし「共通認識はあるはずなのに、アイデンティティが存在していない」という状況はある。それは相手が自分の「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」という要素を「わかっていつつも認めない」というときだ。「わかっている」という点で共通認識が生まれているのだが、認めてはいない。認識しないのである。
ならば認識という言葉を「好意認識」と「敵意認識」に分けてみればよい。簡単に言えば「オタク?あぁ同士だね~w」が好意認識、「オタク?うわキモ・・・」が敵意認識である。もう2年ぐらい前から敵意認識の中で生きている気がする。余談。
好意認識の中では共通認識は楽に生まれる。ここは問題ないはず。
なら敵意認識のときはどうか。
コレは
認識に優先順位があると考えることでしか片付かない。もの凄く適当な論理になってつまらないがこの話自体適当なので無視して進めようと思う。
「ゲーマー」「アニメ好き」「漫画好き」という要素が存在するのは認識するのだが、それよりも「そんな人外な趣味の奴とは関わりたくない」という認識が優先され、先の3つの要素がかき消される。このためにアイデンティティそのものもかき消され、またしても相手が「自分」と話していない、他の人と話されてるような感覚を味わう。
もっと先に挙げた「頑張った」「悪かった」の話も、いくら自分が「頑張った」と主張しようが、相手が「結果は悪かった」という認識を優先していれば、やはり頑張った自分はそこには存在しない。
というわけで、この世にオタク排撃を唱える人が多数である限り、俺みたいな人間はアイデンティティを踏みにじられながら一般人様(笑)に合わせて小さくまとまって生きることしか出来ないわけですね。
もっと書こうかと思ったけど眠いからやめる。
何度も言うけど俺は無事だから。
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