例えば世界で一番嫌いな人間が目の前で銃を構えていたとして、
「跪いて忠誠を誓えば助けてやる」と言われたら。
他に逃げ道はなくて、二者択一だとしたら。
俺は跪けるのかなぁ。
普通は跪くでしょう。いかような屈辱を受けたにしても命には代え難い。
「生きていさえ、すればいいのよ」ってやつですね。前にも書きましたが。
ここの司馬遷のくだりを見ても、やっぱり生き続ける方が尊いように思います。
しかしそこにはすでに自分は生きていないんじゃないかとも思うのです。大切なものを捨ててまで生きながらえることに意味はあるのでしょうか。それはもはや生命活動が続いてるだけなんじゃないでしょうか。
自分をコロコロ豹変させて生きる人を狡猾と呼んで、
自分の正義を貫くために死ぬ人を不器用と呼んで、
どうして関係ない人の生きざままで目につくんでしょうか。わざわざ卑下するようなことまでして。
結局は自分好きってところに行き着くのでしょうか。
内面で言うところの自分が死ぬのであればいっそ外面も含めて死んでもいいというのは、自分を汚したくないというか、綺麗なままにしておきたいというようなエゴが見え隠れして。その後も続く現実を考慮していないというか。
独りよがりという言葉が良く似合います。
今まで生きてきて半分以上を陸上と過ごしてきましたが、陸上という面で見れば自分はいつも一人でした。
小学生の時は妙に生真面目で、遊んでばかりで練習を流してる周りの人に迎合出来ず一人。
中学の時は同期の男子部員が殆ど居らず一人。
高校は怪我をして一人。
完全ではありませんが。特に高校に入ってからの陸上は今までのそれに比べて別次元の楽しさです。ただ突き詰めていくとなんとなく一人。陸上競技の宿命でしょうか?いやいやただ単に自分がこう選んできたからですね。
こんなんだから自分にはリレーに対する熱があまり生まれてきません。もし次の高体連400mHで決勝に行けたとして、間をおかずに来るマイルリレーのためにヨンパーを流すという選択肢は俺には取れないでしょう。結局は自分のことばかり。
内面で言うところの自分が死ぬのであればいっそ外面も含めて死んでもいいという発想で今まで続けてこられたのは運が良かったと思います。
自分を守るために随分とワガママを言って、無理矢理自分の思うとおりにしてきました。願ってもそうなれない人もいるという現実を知ると、自分のエゴが浮き彫りにされていくように思えます。
しかしこの先どうしても内面が死を迎えるときに、外面も生きていられるのでしょうか。
親や友人と離れてでも自分のやりたい事を選ぶような自分しか見ていない人間に、プライドを捨ててでも生きることが選べるんでしょうか。
自分を曲げて力に屈することを嫌い、それに徹底して刃向かう生き方は子供でしょうか。しかし自分にはそんな意味で大人になることがまだわかりません。
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