コメントレスをします。時間も時間ですけど。
直接答えるというより、書かれていたことについて改めて考え直して作った文章を上げる感じになると思います。これでなんとか受け止めていただければなぁ…と。
まず「勉強しないと大学に落ちる!」ということについて。
確かに文面を見れば客観的事実かもしれません。まぁ特異なケースもあると思うので、「かもしれない」にとどめておこうと思います。
しかし注目したいのは文面の裏に働く大きな意志、「大学に落ちることは忌避すべき事態である」という常識、ぶっちゃけて言うところの「学歴社会」というやつです。ここが説明不足でした。
今や社会人になるには大学の1つぐらい出ていないと話にならない、というような風潮が見受けられます。しかしその風潮ばかりが先行し、「特に理由はないけど(世間がそうなってるから)大学には行かなきゃなぁ」ぐらいのスタンスで大学受験に臨む人も出てくる。学歴至上主義による価値観の一元化。これによって自分の意志が入り込む余地がなくなってくる、そこから思考停止に陥る。
僕は学歴というのは結局のところ人を測るためのものさしの1つ でしかないと思っています。ものさしが変われば序列も変わる、学歴社会で上位にいる人も、じゃあ人を率いる能力は?芸術のセンスは?などなど、比べる基準が変われば位なんて簡単に揺らぐものです。
そこで大切になってくるのが、コメン トでも触れられていた「自分が納得出来るかどうか」という所なんですかね。
そこで、今一度「自分」というものを見つめなおしてみようと思います。
生きるという言葉に自分という言葉が伴うとマイナスイメージになるのはなぜでしょうね。これも変な常識だと思います。人生で一番長く付き合う人間って自分自身じゃないですか。長く付き合わなきゃならない人を好きでいられないのはなかなか息苦しい生き方になりそうだなぁと思います。
そんなことはいいとして、自分自身を見つめなおすとき、出てくる言葉といえばやはり「アイデンティティ」ですね。 これを正しく定義しなければならないと思います。
アイデンティティとは広辞苑によれば 「ある人が1個の人格として時間的・空間的に一貫して存在している認識を持ち、それが他者からも認められていること」とあります。要するに「俺はここにいるぞー!」「うんうんそうだねここにいるねー」ってことですね。
ここで重要なのは「自分」という存在について考えるときにも「他者」の存在が必要であるということです。2年前にアイデンティティについて考察した時はここで行き詰まった。それでアイデンティティの可変性とか言い出した訳で、いやはや甘かったなぁ…まぁあれはあれで面白いところもちょっとぐらいあるかなと擁護しておきたいんですけど。
ここでちょっと参考になる読み物を2つ紹介しようと思います。
1つは為末のブログ「侍ハードラー」の、1年ほど前に書かれた「勝負強さの根源」という記事。2つ目は「堀さんと宮村君」というweb漫画で有名な 「読解アヘン」の「レッテルのある教室」という漫画。どちらもただ読んでるだけでも面白いんですが、興味深いのはまったく別のテーマで書かれてるのにアイ デンティティについて共通した認識があることです。それがレッテルという概念です。
世間にはなんとなく「他人からの評価は”客観的事実”であり、受け止めなければならない」というような常識があります。しかし先に挙げた2つはそれを否定し、「他人からの評価は”レッテル”に過ぎず、確固たる自分の存在は変わらない」というのです。
2年前の自分ならアイデンティティの定義との整合性がつけれずにもがいてたはず…でも今ならちゃんと区別出来る気がします。
アイデンティティの定義にある「他者からの認識」とは、「存在そのもの」に対する認識です。
対してレッテルの概念における「他者からの評価」とは、「存在の周りにまとわりつく性質」に対する認識です
木を思い浮かべれば簡単かもしれません。大きな幹が「存在」、枝葉が「性質」と言い換えて良いでしょう。
他者からの評価がどうなっても─レッテルが張り替わっても─枝葉が生え換わっても─幹は変わらずそこにある、存在は変わらずそこにある。自分が存在するとはこういうことではないでしょうか。
例えば自分が周りから「邪魔な存在」だと疎まれたとしても、自分は存在している。ただ「邪魔」と書かれた薄っぺらいレッテルが1枚張られているだけ。そんなものは確固たる自分が存在するということになんの影響も及ぼさない。「自分は自分である。」それでいい…
常識からの脱却の第一歩は自己の正しい認識です。他人の評価、世間の風潮に流されない確固たる自分の存在を確信すること。そこから始まります。
そして自分の生き方に対して、自分の意志で、自分で責任を持ち、自分で決定していく。 そういった積極的な姿勢を「強さ」と呼ぶのだろうと思います。
最初は結論に「アンガージュマン」という言葉を使おうと思った。
しかしアンガージュマンの定義は「自分のなす行動によって、世界全体をその方向へシフトする」というもの。
大学受験をする自分は、アンガージュマンという言葉で表せば学歴社会を肯定していることになる。だから学歴社会を否定する文章の結論にこの言葉は使えなかった。
自分がこの文章に書かれたことを本当に貫きたいならば、大学受験なんかせずに自分の進む道をあらゆる手段で模索して突き進んでいくべきなのだ。
しかしそれが出来ない、結局自分も大きな意志に踊らされている。そんな世界が憎い。
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