部活が非常に危ないところまで来てしまった。
1年生男子2人が部活をやめる意志を固めたらしい。
理由は簡潔に言えば「今の陸上部にいたくない」
陸上部を否定されてしまった。
10月18日に書いたことだが、今の陸上部は変わった。いい意味でも悪い意味でも南高らしくなくなった。勝利という目標にむけて突き進んでいるが、その中で陸上そのものが勝利のための「手段」でしかなくなってしまった。
勝ちたいやつとそうでないやつの温度差が明確になり、勝利意欲の高いやつがそうでないやつを否定する。そうして十人一色の型にはめられた陸上が出来上がり、アイデンティティが崩壊する。
最悪こうなってしまうことは3ヶ月前に分かっていた。先輩とメールや電話で相談し、そしてミーティングでそれをぶつけた。これで先手を打ったはずだった。でもダメだったのかもしれない。
いや、結局現実にこうなってしまった以上、あれはダメだったんだ。
今やめると言ってる人は、きっと陸上は好きだけど陸上部が好きじゃないんだと思う。
好きなのに陸上をやめるという選択肢を選ばせてしまうことが悔しくて仕方がない。気づけなかったこと、きっと止められないであろうこと。
そして全国志向の奴らがやめていく人々を「高いレベルについていけなくて逃げた」とみなすであろうこと。
全国志向の奴らの言い分もわかる。
勝つためには甘えたことは言ってられない、高い意識を持って練習をこなす、つらいことから逃げ出しては勝てない…それもわかる。
しかし現実それを出来ない人間もいる。そういう人間が入り混じるのが部活なのだ。
だが今の陸上部は出来ないやつも出来るようにしようとする。「集団のレベルは個人の中で最も意識の低いもののレベルに合わせられる」…これが理念だから。
高いレベルに目標をおいて、それに向かう。それも「成長」ってことだしそれは正しいと思う。
でも成長っていうプロセスはいろんな表現が出来るわけで、つまり目標に至るまでの道筋は1つじゃない。「こうしなきゃ勝てない」という固定観念がアイデンティティを潰すんじゃないか。
様々な意志があって、また目標も様々なはずで、目標の数だけそこにいたるまでのプロセスも対応した数だけ存在する。それを1つの枠にはめてしまうのはどうなんだろうか?
多数の価値観を認められるかどうかなんだよ…シャレっぽく言えば勝ち観か?
全国に行くだけが勝ちじゃない。自己ベストを出すことや出来なかったことが出来るようになること。それも規模は小さくても勝ち。それを認められるかどうか。
今の部は小さな勝ちで満足することを妥協や甘えと呼ぶ。大きな勝ちを得ることしか意味が無いとされている。
何が欲しいんだろう。全国に出たという思い出か?驚異的なタイムか?
勝利と言う結果を得ることが目的で、それを達成するためにやっていることがたまたま陸上だったから陸上をやっているんじゃないのか?
手段としての陸上というのはつまりそういうこと。「陸上が、走ることが、好きでやっているのか?」ということ。もし同じような目標を持っていて、部員みんなサッカー部に所属してたらサッカーやってたんじゃないのか?陸上である必要がどこにある?
やめる意志を示している奴らも、夏は楽しそうにやってた。
でも今は違う。
自分のやりたい陸上が出来ないからやめる…そう思ってるんだろう。
ワガママに思えるかもしれない。でもそもそも自由な意志で入る部活動で、意志をねじ曲げられてまでやる意味はないんじゃないだろうか。
陸上部というものにもっと魅力があれば、多少の強制も許容出来るのかもしれない。でも現実こういう選択肢が上がってる時点でこいつらにとって陸上部は未練が残るようなものじゃないってこと。そういう部にしてしまったことは最上級生としての責任がある。
とにかくこの現状は打破しなきゃならない。面倒でもミーティングを開くなりして、全国志向とそうでないやつの言い分をぶつけ合わないと、この軋んだ部のケアは出来ない。こんなボロボロの状態で部が突っ走ったら、絶対どこかで怪我してゴールになんて辿り着けない。
また部を壊す。この立場は俺にしか出来ない。壊さなきゃ良いものは創造出来ない…慣れるような立場じゃないけど、行動しなきゃ。
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