昨日の続き。
自分語りとか痛さランクトップレベルかつ誰も得しないのわかってても書きます、もう。
昨日夢とかなんとか言ってみて、将来やりたいことを示してみせた。しかしそれを実行する自分は、本当に示した通りの夢を実現するに足りうる存在なのか?
語った夢ほどに自分は綺麗なのか?
自分の人間性は昨日の文章に端的に表れている。
「日本でしか使えない人間にはなりたくない」
「自分はまだほんの一部しか知らない。知らないのに何かを知ってる風に振る舞いたくはない。だから外に、外に出て、色んなものが見たい」
何かって言うと、"行動原理が常に自分に置かれている"こと。
そしてそれが他人に置き換わることがない。他人のためには生きられない、ただのエゴイストでしかない。
夢を語る上で少年団のことを話題にしたが、それに対する思いだって真摯かどうか怪しい。
子供たちを相手にレクレーションの指導をしていても、自分がどうであるかに気が向くことの方が多い。子供たちを目の前にして「本当に好きでやってるのか?」「もしかして目の前にいる人々を自分のキャリアのために利用してるんじゃないのか?」と思ったこともあるし、そしてそれを否定しきれない。
例えば進学のこともそう。
親は自分の選択に寛容で、好きな道を選ばせてくれているけれど、自分はそれにつけ込んだのかもしれない。
自分が強く出れば親は言い返せないだろうと、それにつけ込んで我を通して、親の希望を聞くことすらしない。ただ親の好意を利用して、自分の好き勝手に生きている。親元を離れたことで逆説的に自立とは程遠いような生活をしている。
普段友達と話してる時ですらそうかもしれない。
本当に自分が人の話を親身に聞いてるのかどうかすら怪しい。相手の話に興味がなくて自分に他の関心事があったら後者に気が向いてることも少なくない。人の好意をあてにして動くことすらある。自分を犠牲にして人に尽くすことに抵抗が生まれないことはない。
もはや目に見えているなにもかもを、ただ自分のために利用しているかもしれないということを、やはり否定しきれない。
人のためになにかをする事もある。
でもそれをした瞬間に相手に費やした労力以上に得られる自己満足があって、結局自分は人のためでなく、人のためになにかをした自分を愛でるためになにかをしたんだということに気づく。
そしてそれをすかさず「動機がどうであれ人の役に立ったならいいじゃないか。口にしなければ相手に動機が知られることはないのだから」と正当化する自分もいる。
本心であらゆるものを利用せんとするようなドス黒いものを抱えて、ひたすらそれを白い布で覆って、めくられなければ人には白く見えるだろうと思いながら、怯えるかのように生きていると。
実際それで上手くやってきた。思いつく限り、今まで不条理に出会ったことがない。18年と半分を振り返ってみて、おおむねなにもかもが自分に都合のいいように動いてきた気さえする。それは自分がなにもかもを都合のいいように利用してきたからなのかもしれない。
そんな風にしかものを考えられない自分が紛争の解決だとか口にすることさえおこがましい。人同士のリアルな衝突に全身全霊で臨むことの出来ない、自分の損得を天秤にかけずにはいられないような人間が、どうして人の役に立てるというのか。
万一そんなことが出来たとして、次の瞬間には大義を成した自分を愛でる自分がいるに違いないのに。
自分のエゴの深さに落胆して、人のためにもならない奴が人に好かれる理由もないという所に達して、せめて自分が自分の面倒をと思ってまたエゴを深める。というのがいつものお決まりのパターン。
18年も飼い慣らしてきたものではあるが、変えられることなら変えてやりたい。
自分の大学選びはやりたいことをやることに加えて出来ないことを出来るようにしたいという思いもあるのかもしれない。
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