人を利用するのは悪いことなのか。
「人を利用する」というのは「自分の力ではなく、他人の力によって自分の利益となるようなものを得ること」だとすれば、そんなことは日常茶飯事である。
例えば、購買に行こうとしてる人にジュースを買いに行ってもらう。人の持ってる問題集をコピーさせてもらう。部活で一緒に練習しようと誘う(競う方が練習効率が上がるという明確な意図をもって)。これらはまさしく他人の力で自分の利益を得る行為だし、利用される側の人にとっては大した利益もない、「骨折り損」ということだ。
しかしたかがこの程度のことで「利用された!」とはそうそうならない。仲のいい友達になら平気で頼めることだし、そうでなくとも「ありがとう」の一言でもあれば大概は済む話だ。それがもしなかったときに「利用された!」となるものだ。
蛇足だが、そういう意味では気軽に利用出来る人を友達と呼んだりするのかもしれない。だとすると「親しき中にも礼儀あり」というのは友達が友達でなくなってしまわないように、という戒めなのだろう。
結局一般的に言うところの「人に利用された」というのは、「相手の利益になるようなことをしたのに相応の報いがなくて不快な思いをしました」ということでしかない。利用した/されたは文脈の話だ。利用された側の人も不快な思いさえしなければ「いいことをしたなぁ」とか納得してくれる。人を利用することそれ自体は善でも悪でもない、前後の文脈がそれを決めるだけ。
ドラマとかでよくありそうな「アイツは人を利用して出世した奴だ」なんてのは、人を不快にするようなやり方で人を利用している点でむしろ人を利用するのが下手だと言えるかもしれない。逆に「アイツに頼まれたら断れない」と言われるようなやり方で人を利用している方がよっぽど上手い。人を利用している自覚がないなら尚更のこと。「頼む」とか「頼る」とかは「利用する」をオブラートに包んだ表現だ。
人に利用されたくない/人を利用するなんてことはしない、なんて生き方は難しい。自分のキャパシティを越えたアクションを取れないし、人生の幅が広がらない。
それよりもいっそ、人は利用するものだし自分も人に利用されるものだと割り切った方が楽に収まるかもしれない。
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