受験票届いたそうです。実家に。
願書ちゃんと書けてたってことですね。とりあえず無事に受験資格もらえて一安心。
手元に届くのは明日になりそうです。
今日の英語長文の講習の1問目が2010年筑波だったのに惨憺たる有様で自分にイラっときている今日この頃。いやぶっちゃけセンター後から日本史一辺倒で、英語は講習メインでしかもそれなりにとれてたからってナメてたらこのザマでしたよ。英語も真面目に演習しよう…
ところで大学行ったら第二外国語を取るわけですね。
僕は少年団のドイツ研修に行ければそれとの兼ね合いもあるし、将来使うかもな~ということで多分ドイツ語を取ることになりそう。ただ最近フランス語もいいかもと思ったり。あと親は中国語激押しなんですが今はまだいいかな…という気持ち。ところで中国語のこと「チャイ語」って言うの流行りなんですか。語感は割と好きです。
もし未来の自分がやる気に満ち溢れたイケメンだったらきっと今興味のある外国語は全部マスターしてイケメンに磨きをかけることでしょうが、これはshouldを使う感じの仮定法ですね。
将来と言ったので、漠然と将来こんなことしようかな~的な話をすると、前に夢の話したときと大筋は変わってなくて、「スポーツ×何か」みたいな感じかなと。
「何か」が社会学なのか法学なのか経済学なのか、それは大学いってから面白そうなのとか向いてそうなので決めるかもしれない。「スポーツ」も少年団や総合型地域スポーツとか触れたいならドイツ語かなと思うし、スポーツ系の国際機関に触れたいならフランス語が良さそうだなと。
しかし言葉はコミュニケーションツールとして使えてナンボだと思うのですが、その点で見て自分の英語力は甚だ疑問であります。
昔英語関係の商品の広告で見た「ニューヨークタイムズが読めて、子供向けの教育番組で流れてる歌の歌詞がわからない英語力」というのはまさに自分のことのような。いやニューヨークタイムズ読んだことないんですけどね。あとその広告は「だからこれを買ってリスニング能力を鍛えよう」みたいな感じだった気が。
センター前に何回か後期対策ってことで面接練習して、英語の質疑応答もやったんですが、文字通りまるでお話にならない。日本語で思い浮かべたことをスパンと英語に直して発言出来ない。6年間もなにやってきたんだろうなぁと切なくなるばかりでした。
この前ついったーで見た「英語が出来る奴なんていらん。英語で出来るかどうかが重要だ」というのを見て考えさせられました。まさに今の自分は前者であって後者じゃない。
ところでこの言葉を見ると「TOEICで○○点取る勉強法!」みたいな本について考えさせられます。英語の「実用的コミュニケーション能力」を測るテストなのに点取ることが目的化すると本末転倒ですね。突き詰めればTOEICの点数は実用的コミュニケーション能力の証明にはならないということなのかもしれない。
どれだけ英語長文解いて正答率が上がったところで、「あ~英語が出来るようになってるなぁ」としか思えないある種の虚しさ。インプットはひたすらスムーズになってくんですが、アウトプット、特に会話という点は、てんで整備されてない。
自分にしかわからない、他の人に伝えられない状態の言葉はもはや言葉として生きていない。
大学に行ったらちゃんと生きた言葉を、それこそ2つでも3つでも使えるようになりたいなと思います。
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