死ぬじゃないですか、人間、いつか。
俺なんか敵作りやすいし、チャリの運転も危ないしでまーロクな死に方しねーだろーなと思います。
気づかないだけで日常は死と隣り合わせ、なんとかそれに触らないようにうまくやりすごしてる訳ですね。
死ってなんなんですかね。
永眠という婉曲は言い得て妙だなと思います。恥ずかしい話、昔「今寝て、目が覚めなかったらどうしよう」という謎の恐れを持ってた時期もあり、そんで次の日の朝ちゃんと目が覚めて安心するんですね。いやはやかわいい時期もあったもんだ。
眠りに入る瞬間は意識出来ませんが、やはり死ぬ瞬間も同様なんですかね。それとも予兆ぐらいは掴めるんでしょうか。
死は別に遠くにあるものじゃない。明日死ぬかもしれないことを100%否定は出来ない。平均寿命もただの統計で、自分が80歳まで生きることが約束されてるわけじゃない。
それでも自分が死ぬなんて思わないでしょ?明日死ぬかもしれないなんて考えで刹那的に生きてたらちぐはぐになる。例えば俺が今「アナタ明日死にます」とか言われたら受験勉強なんぞやめてなんか美味しいもんでも食べに行くでしょう。明日があるかどうかで今日することもこんな風に変わる。明日がちゃんと来るかどうかは確実じゃないのにも関わらず。
でも結局そんな刹那的な生は、目先にある快楽だけを追うような怠惰な生で、つまり死んだような生き方でしかない。一貫性に欠ける。自分はまだ死ぬわけないって無理矢理にでも思いこまなきゃ生産的な行動は出来ない。
人間いつか死ぬとしても、自分はまだ死なないさ。
そう思い込んで生きている。
でももし「思い込んでいる」ことを忘れたら、生きてることを当然のように考えたら、事態は少し変わる。
生が当然だとしたら、明日も当然来ると考える。
明日が当然だとしたら、今日の悔いを繰り越すことを考える。
それを繰り返していけば、「今日」を大事にしなくなる…
それもまた、死んだような生き方だ。
どうせ死ぬなら「Es Ist Gut!」で死ねるのが一番良い。
死ぬ間際に10秒くらいでも人生振り返る時間があったとして、そのときに嫌なことより1つでも多く楽しいことを思い出せれば人生勝ちだと思います。
でもそのときにもし明日に繰り越そうとか考えてた悔いなんかあったら、死んでも死にきれないというもの。
家族におやすみを告げて、布団に入って、瞼を閉じたそのときに、「もしこのまま目が覚めなかったとしても後悔しないだけの今日を過ごせたか?」と問いかけてみる。YESなら楽しい人生送ってますね。
死を恐れたら堕落する。
死を忘れても堕落する。
生死はカードの表裏。近くにあることを忘れてはならないし、怖くても立ち向かわなきゃならない。死と上手くお付き合いすることで生がより強烈に浮かび上がる。
ネガティブに立ち向かう心持ちは爆発的な力を生みます。「死ぬ気で頑張る」という表現もまた言い得て妙というものです。
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無題 - しゅうへい
俺は死よりも生きることはなんなのかって思うけどね~
でもひょっとしたら生と死って同じなのかもとも思う
この二つは表裏一体というし
そんな僕は化学の授業に出たくありません(笑)