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最後の定期考査晒し
現代文:60
古典:60
古典購読:81
数学:70
英語R:63
英語W:83
応用英語:67
化学:34
日本史:92
倫理:99
でした。化学と、あともしかしたら応用英語で平均割っちゃったかもしれない。
ラスト日本史で9割越えはしてやったり。しかしラスト倫理で100点逃したのはしてやられました。マルクスを見るまでは勝利を確信してたんですが。「生産様式」の4文字に負けました。
それとこの土日にあった全統センタープレの自己採点。
国語:188
数ⅠA:66
数ⅡB:65
英語:177
リス:48
日本史:77
倫理:82
物理:61
合計:719/900(リスニング換算後)
筑波換算:418/500
でした。
今回は国語ゲーでした。文章は決して簡単じゃなかったはずだし、それまでに社会2科目すっころんでメンタルボロボロだったにも関わらず、神様のお目こぼしとでも言うのか、小説と漢文1ミスずつのみ。評論はまだしも古文満点は実力なんてとてもじゃないけど言えない。
それ以外は体感的にはあんまりパッとしないですね。
今回は読みの未熟さが浮き彫りになった印象ですね。倫理で老子が仁や義を語っていないことや親鸞は絶対他力であることを見抜けない辺りは読みが浅いし、英語で想像を走らせて書いてあることから離れた答えを書く辺りは深読みしすぎていました。日本史倫理は取るべき点数から10点近く悪いし、英語も発音2つと文法1つしか落とさなかったのに読解3ミスで180逃したのは痛い。まぁリスニングは評価出来ますかね。これのおかげで換算後なら英語は180ぴったりなので。
日本史に関しては知識不足も実感。数学の計算力不足もですかね。一応最近は数学も毎日やっててそれなりに自信もって臨んだんですがベクトル5/20とかじゃさすがに…
筑波換算して8割4分弱ですから、実際本番でこの点数ならひとまず安心は出来るんですけどね。なので今回は上手く行ったとハッキリは言い切れませんがやるべきことは出来たのかなと。
でもやはりこれだと物足りなく感じます。目標としてはもう少し高めに取りたいところ。2次が400/500取れるとは言い切れませんしねぇ。
まぁこの時期の模試は予備校の冬季講習に行かせるために難しくしてるとかいう話もありますし、所詮は模試以上のものではありませんから、本番に向けての糧としたいものです。
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六華ゼミに出ました。
今回の講師の方が裁判官ということで内容に興味があったのもあり、またタイトルにある通りの意味もあり。
受験生家業も佳境に入ってくると何がつらいって、新しいことが入ってこないことなんですよ。授業も新しい情報を取り扱うことはほとんどなく、既知の情報の「扱い方」を学ぶという方向に向かうんですね。下手したら1日が焼き増しに終わることも珍しくない。
そんな閉じた生活を続けるのが嫌なので、意識的に新しいことを取り入れて脳の代謝を促すようにしています。六華ゼミもその一環ということです。
ちなみに3年生はさすがに来ないよなと思ったら他の文系クラスの人が1人いましたね。もしかしたらまだいたかもしれませんが。
六華ゼミ、出る度に面白かったと感じるんですが今回もとても興味深い話を聞くことが出来ました。
実際に取り扱った判例の詳しい経過や判決について触れながら裁判官という仕事を紹介していたのですが、法によって人を裁くという行いの中にも、やはり根底にあるのは「人の心」なのかと感じさせられました。
特に夫婦で覚せい剤を使ったケースについての話は考えさせられました。
筋道立った供述をする妻、どうにも噛み合わない供述をする夫。セオリーからすれば夫が罪から逃れようと嘘の供述をしていると思われる。しかし深く根を探っていくにつれ妻の供述にも整合性の合わない部分が出ている。どちらが嘘をついているのか?真実はどこにあるのか?
結末は、妻が他の男と結ばれるために夫を貶めようとした。夫はそれに気づきながらもまだやり直したい気持ちがあり、嘘をついてでも妻をかばうことで気を向けさせようとした。どちらも嘘をついていた。そんな真実。
また裁判官という職責についても語っておられました。事件の核心に迫る中で私人としての情にかられることもあれど、人を裁く段階では「裁判官としての立場」を貫かなければならない。私人の視点で罪を考えてはいけないとのこと。その観点に立つと裁判員制度も違った見方が出来るでしょう。
2時間弱の長いゼミでしたが問題集と向き合うよりはるかに多くのものを得たと思います。
代謝という話でもう1つ。割と本来的な意味での。
札マラが終わってからめっきり運動する機会が減り、体育でバスケをやっては試合中に息切れしてすぐ使い物にならなくなるという恥ずかしい体に成り下がってしまいました。
長い間体使わないとなんかもやもやしてくる気もして、そこに駅伝やらアジア大会やらで人が走ってる姿を見るともういてもたってもいられなくなってくる。今のところ一番やりたいのはスタートダッシュでしょうか。
とはいえ寒さもある手前なかなか走ることには及ばず…でもたるんだ身体も許せない…そんなプラスマイナスの葛藤があったり。
とりあえずウェイト室にまた通い始めて少しずつ筋トレ再開するかもしれません。有酸素運動もなにか取り入れられたらいいなとは思うのでこの辺りもなんか考えておきます。やるとしても自重トレーニングですね。体重は61~62kgで推移したらいいな。
新しいもの好きな性分なので、古いものはちゃっちゃと捨ててしまいたい。
化石みたいなのは嫌ですね。色々と。
現代文の印象はあまり良くないのではないでしょうか。
実際勉強しても伸びづらい、そもそもなにをやってる教科なのかわからない、理数系教科の内職に利用されたりしちゃうという印象があるのは否めない。
しかしまぁ勉強する意義のある教科だとは思います。とりあえず「日本語の読み書きや会話なんて日常的にやってるのになんでわざわざ…」とか言う人が文法的に完璧な日本語を使ってるのは見たことがない。まぁ「完璧な日本語を使え」と言うより「間違った日本語を使うな」という方向性のもと、ある程度のレベルで日本語を使うことが求められているのではないかと思いますが、やはり母国語の使用が危うい状態は日本人としてのアイデンティティが危ういんじゃないでしょうか。
おそらく試験で問われる現代文もそういった使用が出来るかどうかを試しているのではないかと思います。
では具体的にどういった使用が求められているのか、「なにをやっているのかよくわからない現代文」は一体なにをやっているのか。
その問いを解く鍵をウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に求めてみましょう。
非力ながら言語ゲームについて説明すると、「言葉の意味は言葉の使われ方に依る」というもので、例えば僕が「鉛筆」とか言ったとき、「鉛筆」が指すものは具体的な物体や心的なイメージではなく「鉛筆という語がどのように使われたか」である。ということです。その場の状況や会話の流れで語の意味は変化するんですね。
この認識に基づくと、まさに現代文の試験とは言語ゲームなのです。提示された文章を読み、「この言葉はどういう使われ方をしているのか?」というやり方によって紐解き、最終的に「筆者の言わんとするところはなにか?」までたどり着く。そういうゲームなのです。
次に一般的な試験の形式(評論・小説)について個別に当たってみます。なぜこの2つが選ばれるのか。おそらく現代文を通じて求められる能力の象徴が評論・小説であるからと思われます。
評論で求められるものは「論理的思考力」でしょう。評論の構成は序論-本論-結論という一定の形式に当てはめられており、一貫した筆者の主張に具体例などが肉付けされています。
評論といえばやはり難しい表現が多い。例えばこの「難しい表現」も「難解な表現」とか「理解しがたい表現」みたいに似たような形でこねくり回すこともある。
しかしそういった表現にも必ず意図があるはずです。筆者は自分の言いたいことを人に理解して欲しくて文章を書く、しかし出来るだけ誤解や齟齬を招いて欲しくはない、したがって筆者が使う表現は「筆者の考えを表すのに最も適したもの」が使われるのです。それを「どういう使われ方をしているのか?」と逆に辿っていくことで筆者の主張はつかめる。あとはそれを論理的に矛盾がない形で組み立てる思考力、それこそが評論で求められる能力なのです。
小説では「想像力」が問われます。小説は論理の飛躍や矛盾もあり得る。愛とか友情とかを理路整然と語るのも堅苦しいでしょう。
やはりここでも筆者が使う表現は筆者の思い描く世界観を表すのにふさわしいものです。細やかな情景描写にも必ず意図がある。
たぐり寄せた筆者の意図をどう組み立て直すか、評論のように一定の形式に当てはめられるものではありません。
実はここで「マンガ的思考力」が意外に役立つのではないかと最近思い始めました。
マンガを読むとき、意識せずとも文字による情報と絵による情報を平行処理しています。どちらか一方に偏ると正確に物語を楽しめない。
文字に一元化されている物語をマンガ的なイメージ+文字の二元化に持ち込むこと、これが小説読解の戦略なのです。ホラお母さん方、マンガも意外に勉強の役に立ってるかもしれませんよ!w
最後に現代文で超ありがちな問い、「文章読んで人がもつ考えや感想なんて人それぞれじゃん!数学みたいに1つの答えにはなんないだろ!」に僕なりの見解を示しておこうと思います。適当な図式も交えつつ。
ここまで見てきたとおり、文章にはまず筆者の考えがあり、そこになんらかの意図をもって、ある言葉が使われます。
考え・世界観 → 【意図】 → 言葉
【】←これはフィルターだと思ってください。これを通すと前後が変化します。
確かに人それぞれの感想は違いますが、それは与えられた言葉に解釈を加えたものです。
(略) → 言葉 → 【解釈】 → 感想
解釈というフィルターを経た時点で「人それぞれの感想」は「筆者の考え」とは違いますね。
さて模試なんかの問題文を見てみると、感想が問われる問題はまったくありません。問われるのは「筆者の考え」や「登場人物の心情(=作者に作られたもの、作者の世界観)」が中心です。
つまりどんな感想を持とうが、それは問題じゃない!ということです。
考え・世界観(こっちを聞かれてる) → 【意図】 → 言葉(ここが問題文になる) → 【解釈】 → 感想(知ったこっちゃない)
感想は十人十色ですが筆者の考えや世界観は1通りです。作者は1人なんですから。
必要な作業は言葉から逆算して意図というフィルターをかいくぐり筆者の脳内にたどり着くことだけです。
筆者サイド:考え・世界観(こんなことを書きたいな) → 【意図】 → 言葉(こういう使い方してみた)
↓逆転
解答者サイド:言葉(こんな使い方で書かれてるな) → 【意図】 → 考え・世界観(こんなことを言いたいんだろう)
…うん、やっぱ見づらかったよねコレ……
携帯の限界かあぁ。でもやっちゃったもんは仕方ないからこのまま書いときますね。
とにかく、現代文は答えがバラバラ、勉強しても無駄、やる意味ナシみたいな考えでいる人はちょっと考え直してみてはいかがでしょうか?
まぁこんなことを書きながら、自分も色々と試行錯誤する日々です。
こんな見づらいのでも国語の点数で伸び悩む人の助けになれば幸いです。
実テの順位が出ました。
国語 9/109
数学 28/110
英語 42/304
全体 15/109
で、数学以外で載りました。
数学で逆転されて全体順位落とすとか1番最初の実テみたいですね。
英語は理系も含む順位ですがここまで差し込まれるもんなんですねぇ。数ⅢCやら理科Ⅱ×2で3年になってからも負担デカいのにすごいなと。
まぁこれなら進路のしおりに載っても大丈夫かな。
あと全統記述が返ってきました。
国語 111/200
英語 171/200
日本史 74/100
筑波ー国際、北大ー総合文系 A判
筑波ー社会 B判
でした。うっひょーい。
全統記述の英語って確か遅刻ギリギリのお腹ペコペコで解いたやつなんですがベスト更新の8割5分。なんだこれ別の人の答案じゃないのか。
日本史も記述模試としてはなかなかいい出来。まぁ本番はまったく形式違うんでアテになんないですけどねー。
国語はあれです、古文でやられたってやつ。11/50でした。それでも自己採点よりは上がってんのな…どのみち判定には含まれないからキニシナイ。
学部順位1つ上がって4位でした。僕の集計偏差値が72.4なんですが、1人偏差値75台んとこに別格の人がいるので、仮想敵っつったらこの人になるんですかね。
さてただいま最後の定期考査期間ということで大変勉強もはかどって
ない。
誰だよこの前勝って兜のなんたらかんたらとか言ってたのは…
まぁきっと考査終わってまた学校残るようになったら「あんときアレだけ遊んどいて今サボるとか言うわけねぇよなオイ?」みたいな脅迫観念に駆られて頑張ってくれることでしょう。そんな感じで5日後の自分、ヨロシク。
前のキタワァなマーク模試が返ってきました。
自己採点からさらに数ⅡBが2点アップして、筑波国際総合の前期・後期と北大総合文系でA判いただきました。
国際総合の前期では第1志望者の順位が5/218、総志望者で20/514と、募集人員のリミットからかなり差をつけることが出来ました。
A判を見るのは2年の1月の記述模試以来ですね。あのときは数学が異常に出来たから二次の判定数学で出されたやつでしたね確か。あと英語が文法弱すぎてexpertやり始めようと決心した模試でもあると。あそこから英語伸び始めた感はあります。
うっかり出たA判と出すべくして出したA判はやはり重みが違いますね。陸上のタイムみたいに。
Aの文字に励まされるのは間違いない。
でも判定良くなかった人が必死に追いかけてくることもまた然り。だからこそ勝って兜の緒を締めよってやつ?
まだのびしろもあるわけですし、一応僕にもまだ追っかけるべき4人がいるそうですので、まださらに積み上げていこうと思います。