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2025.10.08 - 
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at 15:37
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我を語る

2010.11.03 - ケータイ
昨日の続き。
自分語りとか痛さランクトップレベルかつ誰も得しないのわかってても書きます、もう。
昨日夢とかなんとか言ってみて、将来やりたいことを示してみせた。しかしそれを実行する自分は、本当に示した通りの夢を実現するに足りうる存在なのか?
語った夢ほどに自分は綺麗なのか?

自分の人間性は昨日の文章に端的に表れている。
「日本でしか使えない人間にはなりたくない」
「自分はまだほんの一部しか知らない。知らないのに何かを知ってる風に振る舞いたくはない。だから外に、外に出て、色んなものが見たい」
何かって言うと、"行動原理が常に自分に置かれている"こと。
そしてそれが他人に置き換わることがない。他人のためには生きられない、ただのエゴイストでしかない。

夢を語る上で少年団のことを話題にしたが、それに対する思いだって真摯かどうか怪しい。
子供たちを相手にレクレーションの指導をしていても、自分がどうであるかに気が向くことの方が多い。子供たちを目の前にして「本当に好きでやってるのか?」「もしかして目の前にいる人々を自分のキャリアのために利用してるんじゃないのか?」と思ったこともあるし、そしてそれを否定しきれない。

例えば進学のこともそう。
親は自分の選択に寛容で、好きな道を選ばせてくれているけれど、自分はそれにつけ込んだのかもしれない。
自分が強く出れば親は言い返せないだろうと、それにつけ込んで我を通して、親の希望を聞くことすらしない。ただ親の好意を利用して、自分の好き勝手に生きている。親元を離れたことで逆説的に自立とは程遠いような生活をしている。

普段友達と話してる時ですらそうかもしれない。
本当に自分が人の話を親身に聞いてるのかどうかすら怪しい。相手の話に興味がなくて自分に他の関心事があったら後者に気が向いてることも少なくない。人の好意をあてにして動くことすらある。自分を犠牲にして人に尽くすことに抵抗が生まれないことはない。
もはや目に見えているなにもかもを、ただ自分のために利用しているかもしれないということを、やはり否定しきれない。

人のためになにかをする事もある。
でもそれをした瞬間に相手に費やした労力以上に得られる自己満足があって、結局自分は人のためでなく、人のためになにかをした自分を愛でるためになにかをしたんだということに気づく。
そしてそれをすかさず「動機がどうであれ人の役に立ったならいいじゃないか。口にしなければ相手に動機が知られることはないのだから」と正当化する自分もいる。

本心であらゆるものを利用せんとするようなドス黒いものを抱えて、ひたすらそれを白い布で覆って、めくられなければ人には白く見えるだろうと思いながら、怯えるかのように生きていると。
実際それで上手くやってきた。思いつく限り、今まで不条理に出会ったことがない。18年と半分を振り返ってみて、おおむねなにもかもが自分に都合のいいように動いてきた気さえする。それは自分がなにもかもを都合のいいように利用してきたからなのかもしれない。

そんな風にしかものを考えられない自分が紛争の解決だとか口にすることさえおこがましい。人同士のリアルな衝突に全身全霊で臨むことの出来ない、自分の損得を天秤にかけずにはいられないような人間が、どうして人の役に立てるというのか。
万一そんなことが出来たとして、次の瞬間には大義を成した自分を愛でる自分がいるに違いないのに。

自分のエゴの深さに落胆して、人のためにもならない奴が人に好かれる理由もないという所に達して、せめて自分が自分の面倒をと思ってまたエゴを深める。というのがいつものお決まりのパターン。
18年も飼い慣らしてきたものではあるが、変えられることなら変えてやりたい。
自分の大学選びはやりたいことをやることに加えて出来ないことを出来るようにしたいという思いもあるのかもしれない。
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KANI at 22:44
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夢を語る

2010.11.02 - ケータイ
なんで突然?と聞かれると、昨日国際総合学類受ける人の掲示板みたいなのを見かけて、受験者のモチベの高さに圧倒されたから、かな。
他にも後期対策とか見据えてく上で意識せざるを得ないのを、どういう訳かここに書き散らかそうということで。
ある種の"はしたなさ"みたいなものも感じますよね。心の中にしまっておけばいいものをわざわざ開けっぴろげに、しかも言葉じゃなく文字でしか表現しようとしない辺りはなおさら。まぁ口で人に言う機会もなかなかないし、どのみち内緒のままにはしておかないような話ですから。

さて、「夢を語る」と題しておきながら、僕には確固たる将来の夢はありません。普段ブログで目的意識云々みたいな話を散々しておきながら、一番身近で手っ取り早い人生の目的が僕にはない。
高校選びも大学選びも、とりあえずその場所でやりたいことは数あれど、その先まで見据えて選んだ訳ではない。だから将来に対するスタンスも「大学入ってから決める」で、学校の進路関係の書類にはそうやって出していました。先のことは"先"が近くに来たときに真剣に考えればいいやと。
まぁ夢がないからこそ固定観念にとらわれずいろんなものを接収したり降ってくるものをあるがままに享受出来たりしたのもあるでしょうし、これはこれで悪い生き方ではなかっただろうなとは思ってます。ただやっぱり将来の夢を活き活きと語る人をうらやましく、また尊敬することも多いのです。うちのクラスは教育系と経済が多いのだろうか。あと友達は法律系ですね。

今のところ確固たる将来の夢はない。学校の人に聞かれたときぐらいならそれでもごまかせるでしょう。
ただやはりごまかせないケースもあって、例えば親や親戚にあえて外に出る理由を言うときに説得力を出したいだとか、あとは面接で聞かれてこの理由じゃお話にならない。
ということで「建前」というほど無機質なものでもないのですが、「強いて言えばこういうことがやってみたいのかもしれない」ぐらいのものを夢と称して、「やりたいことは大学で探したいな」という本心と二刀流で構えて日々を過ごしているわけです。

ちょっと夢からは離れて、大学の話をします。
僕が筑波を選んだ理由といえば、端的には、国公立の中でも抜群に陸上が強いこと、それに色んな学類の授業をとれるので二者択一が出来ないあれもこれも欲しがりな自分にピッタリな場所だと思ったからです。高校選びとだいたい同じですね。
ただその中で「なぜ国際総合学類か?」と聞かれると、実ははっきりとは答えられない。だから「発展途上国の開発に興味がある」とか「国連で働きたい」とか言う人とはモチベーションに決定的なギャップがあって、時にそれがコンプレックスに感じたりもします。
あれこれ考えていくうちにここでもまた「強いて言えばこれかな」ぐらいの落としどころが思い浮かび、ひとまずはそれを志望動機ということにしてるのが現状です。その動機というのが、「日本でしか使えない人間にはなりたくない」というもの。
ぶっちゃけゲームのセリフですけど、「世界は自分の目に見える範囲でしかない」という"すばらしきこのせかい"っていうゲームの言葉に考えさせられるところがあるんですよね。目の前で人が死んだらPTSDになるレベルのショックなのに、遠くの国で飢餓や疫病で死んでく人の存在を知らされても一時的な同情ぐらいで済まされる。世界は広くて、いたるところでリアルが起きてるのに、自分はまだほんの一部しか知らない。知らないのに何かを知ってる風に振る舞いたくはない。だから外に、外に出て、色んなものが見たい。これがとりあえずの落としどころですね。

さて、もし大学に行って「日本の外でも使える人間」になったとして、その先になにをするのか。それこそが二本目の刀ということです。思い出す限りこれは父にしか言ってなかったと思います。
ドイツを参考に、スポーツ少年団の活動を通して、スポーツから国際関係を改善すること。それが思いつく限りの"夢"です。
確かきっかけはワールドカップだったか。普段ニュースで関係が悪いとされてるような国々でも、ピッチでは統一された1つのルールの下に動く。宗教上の理由で突然相手プレーヤーを殴るとかそんなバカバカしいことは起きない。そうでないとゲームが成立しないから。
「ゲームを成立させるための統一的ルール」という概念を機軸に、上手く枠を広げて、国際紛争が解決出来たら…まぁ夢物語でしょうね。だとしてもやるだけの価値はゼロじゃないと思うし、価値があるならやってみたいと思う。それが「強いて言えばこういうことがやってみたいのかもしれない」という形で引っかかってるものです。
まぁ先のことはわかりませんから、"先"の自分がどんな風に選ぶのか、もしかしたらまったく違うことを選ぶのかもしれません。
どんな道を選んだにしろそれなりに上手くこなす気はするんですけどね。



ついでなんでもう1つ夢の話を。
DASHのプロフィールの夢に(よくもまぁ恥ずかしげもなく)「人に感動を与える走りをすること」とあるんですが、あれにはモチーフがあるんですね。
僕が中2のとき、インターハイ男子100mで3位になった岩村先輩(勝手に名前出してすいません)、あの走りがまさにそれだったと。
そのときまでは高校も帯広のつもりだったし、ぶっちゃけ南高の存在すら知らないぐらいの田舎者でした。しかしあのときのインターハイの中継を見て、ここなら勉強も陸上もトップレベルで出来ると思って進路変更。そしてホントに受かってしまい、今に至る。
あのときテレビがついてなかったら今普段話してる人とも出会うことはなかったわけで、そういう意味で4年前のインターハイの岩村先輩の走りは「人生を変えた走り」なんですね。
自分もそんな走りができたらいいなぁ~、なんて思いながら、陸上にしがみついているのでした。
先輩が筑波に行ったことも自分の進路に少なからず影響してるのかもしれません。入れ替わりで卒業ですけどね。
    
KANI at 23:16
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南高生の矜持

2010.10.24 - ケータイ
学校という単位でのナショナリズムの話。

入学した当初、先輩方を見て、今まで見てきた高校生とは違うとまず思いました。
モノの考え方、立ち振る舞い、時には少しヒネた目線も、とにかく今まで経験したことのないもので、刺激的で、そーいうところが結構好きでした。

自分が1年生の時に先輩方を見てた視線と、今の後輩達が自分を見る視線とが、同じかどうかはわかりません。
でも今の自分が1年生の時に見た先輩方のような空気をまとっているかと言ったら、主観的には少し違う気がします。

先輩方がこれを持っていたかどうかはわかりません。
でも今の自分が思うに、少し違う原因は、足りないものは、矜持だと思います。
あえて「南高生」にまで枠を広げて言おうと思います。今の南高生には選民思想が足りない。
「俺は普通の高校生とは違う」ぐらいの、ある種の思い上がりが足りてない。

やっぱりこの学校、一味違うんです。
まず周りが南高を見る目は他の学校を見る目とは違う。期待とか憧れとか色々混じってる。
それに応えるかのように、素材はしっかりしてる。さすがに厳しい得点率の門かいくぐってるだけはある。
でも入学して少し経つとわかるのが、結局本質的には高校生だなってこと。周りが言うほど世間離れしたものでもなく、世間一般の高校生と同じような悩みとかトラブルとかあるんだなと。
それでも変わることのない周囲からの視線に耐えられなくなると、こうも言いたくなる。
「仕方ないじゃん!だってまだ"ただの高校生"だもん!」

いや、それは嘘だと思う。
南高生は"ただの高校生"の一歩先を歩ける存在だと思う。
そう、1年生のときに見た先輩方は、まさに一歩先を行っていた。
そして自分たちももう最終学年なのだから、あとはやろうとするかしないかだけの問題で、それだけの能力は備わってるはず。
しかし、「ただの高校生の一歩先」の意味を、他人を見下し優越感に浸る根拠だと捉える奴は、全然わかっちゃいないし南高生の風上にも置けない。

一歩先というぐらいだから、普通の高校生が歩む道を全て踏破した上での、さらなるもう一歩なのです。
つまりまず"普通の高校生"という仮想目標があって、そいつが出来るようなことは全て出来る、そしてさらにそいつが出来ないこともちょっとだけ出来る。「南高生だからこんな数学の問題なんて訳ありませんよ鍛えてますからねHAHAHA!」…とまでは言わないでいいにしろ、そういう心構え、それこそが南高生が持っていてもいい選民思想ではないかと思います。
まぁ仮想目標を作ってる段階で少なからず他人を見下してるような意識があることは否定できませんけど、いいんじゃないですかこのぐらいなら。能力ある奴がない風に卑屈に振る舞ってる方がむしろ嫌味だと思います。出来る奴は出来る奴として振る舞えばいい。ただ「南高生はこんな数学の問題楽勝!出来ない奴はバカ!」とか後半で余計なこと言い出す奴がいたら早いとこ考え方改めて欲しい。

選民思想は他人を見下して優越感に浸るために使うんじゃない。甘えを断ち切るためのエンジンとして使うんです。
つらいとき、苦しいとき、"ただの高校生"なら挫折してしまいそうなとき、自分を"ただの高校生"という器にしまい込んで小さくまとまらないように、楽な方へ流れていかないように、甘えないように、「自分はただの高校生とは違う」「自分は南高生だから」「この程度の壁は乗り越えられる」そういう形で使うんです。

多分ここから嫌なことを言うと思うのを先に断っておきます。
自分としてはこの選民思想を、陸上部に使いこなしてほしい。
というのも中から見てた陸上部は一体どこまで"ただの高校生"として扱って欲しくて、どこまで"南高生"として扱って欲しいのかが曖昧になってるから。それを今一度見つめ直して欲しい。
思うに世間一般の陸上部というのは顧問が決めたメニューを信じてやってくもんだと思う。
でも南高陸上部は「生徒がメニューを作る」という形がある。これの解釈が曖昧だと思う。
はっきり言ってしまえば「自分達でメニューを決めたい」って言う割には見通しもポイントも甘くて結局「自主性」という言葉を逃げ口上として使ってるんじゃないかと言うこと。
それと「自主性」という言葉に夢を持ちすぎなんじゃないかということ。さっき言ったとおり「一歩先を行く」というのは「普通の高校生が歩む道を全て踏破した上でのさらなるもう一歩」であって、踏破する前に先に行こうと焦って歩幅広げたら必ずつまづく。俺みたいにね。偉そうなこと言ってるようで今までのは全部自分の後悔なのサ。
自分がまだ未熟だと感じる内は、一旦プライドを脇に置いてみるのも大切なことだと思う。あくまで一旦だけ。一歩先を目指すための一時の経験値稼ぎとしてだけ。脇にずっとほったらかしといたら一歩先は遠い。
一歩先行く南高生なら、自分に足りないモノを顧みて、それを補強する最善の練習法を調査と試行錯誤の末に編み出して、結果出して、それでいてテストもいい点取っちゃったりするんだろう。そんな夢みたいな両立をするのが、普通なら出来ないだろって思うようなことをやってのけちゃうのが、まさしく普通ならざる南高生なんです、きっとね。

ネコがライオンのフリするのは本当に思い上がりですが、ライオンはライオンのままであればいいと思うのです。
ライオンがネコのフリをするのは謙虚の意味を捉え違えてるし、そんなことしてたらいつか本当にネコみたいな腑抜けになるんじゃないかと思います。
人間たまにはデカいことの1つでも言ってみたらいいんじゃないですか。デカいこと出来るようになってからそれを口にするんじゃなくて、まずデカいこと言ってからそれに相応しい人間を目指していくような、自分を賭けることが先の一歩を目指すための原動力だと思います。
    
KANI at 22:59
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我女にて

2010.10.23 - ケータイ
どうも全統記述とは相性が悪い。
問題云々じゃなくてなぜか全統記述の日は絶望的に寝坊するのです。
記述は2次対策と割り切って英・国・歴だけ受けて、それで開始時間も10時40分からと遅いんですが、それにしたって10時起床はない(しかも全統記述2回あって2回とも)

今週から地下鉄登校になって時間がかかるようになったので起床直後からパニック状態。まず札駅まで全力疾走、ゼーハー言いながら地下鉄乗って、幌平橋で降りてからまた全力疾走。席に着いたら汗拭いながら即英語の解答開始。朝ご飯抜きで解いた割には英語はまぁまぁでした。さすがにこんな時期から1日1本長文やってるだけある。

今回日本史はいつもの模試みたいなことにはなってないと思います。でも下手したら40分で解いたこっちより余った20分で解いた倫理の方が良いかもしれない。

ただ今回国語でやられました。特に古文は自己採点が10点いかない壊滅ぶり。解説見て解釈まるで間違ってたことに絶望しました…
<言い訳タイム>
第2段落が綺麗な風景描写で始まって、なんか物思いにふけってる人がいて、それを"宰相中将"(男の人ですね)が見ていろいろ考えてるって感じだったんですよ。
で、この物思いにふけってる人を女性だと思ったまま読んでたんですよ。して途中で出てきた「我女にて~」って台詞も「私は女だから~」みたいな感じだと思ったんですよ。
したら解説見てみたら物思いにふけってる人実は男で、「我女にて~」って台詞は宰相中将の台詞で、現代語訳が
「もし私が女だったら、すべてを捨ててなびいてしまうだろう」
…え?
てかこれガチホm(ry
という感じでやられたのでした。アッー
</言い訳タイム>

あと漢文でも書き下し文にするとき漢字1個入れ忘れてて7点ロスっていうやらかしっぷりでした。今回の国語はホントにひどいかもしれない。
古文漢文調子良くないからなんとかしたいなぁ…
    
KANI at 22:16
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Memento mori

2010.10.19 - ケータイ
死ぬじゃないですか、人間、いつか。
俺なんか敵作りやすいし、チャリの運転も危ないしでまーロクな死に方しねーだろーなと思います。
気づかないだけで日常は死と隣り合わせ、なんとかそれに触らないようにうまくやりすごしてる訳ですね。

死ってなんなんですかね。
永眠という婉曲は言い得て妙だなと思います。恥ずかしい話、昔「今寝て、目が覚めなかったらどうしよう」という謎の恐れを持ってた時期もあり、そんで次の日の朝ちゃんと目が覚めて安心するんですね。いやはやかわいい時期もあったもんだ。
眠りに入る瞬間は意識出来ませんが、やはり死ぬ瞬間も同様なんですかね。それとも予兆ぐらいは掴めるんでしょうか。

死は別に遠くにあるものじゃない。明日死ぬかもしれないことを100%否定は出来ない。平均寿命もただの統計で、自分が80歳まで生きることが約束されてるわけじゃない。
それでも自分が死ぬなんて思わないでしょ?明日死ぬかもしれないなんて考えで刹那的に生きてたらちぐはぐになる。例えば俺が今「アナタ明日死にます」とか言われたら受験勉強なんぞやめてなんか美味しいもんでも食べに行くでしょう。明日があるかどうかで今日することもこんな風に変わる。明日がちゃんと来るかどうかは確実じゃないのにも関わらず。
でも結局そんな刹那的な生は、目先にある快楽だけを追うような怠惰な生で、つまり死んだような生き方でしかない。一貫性に欠ける。自分はまだ死ぬわけないって無理矢理にでも思いこまなきゃ生産的な行動は出来ない。

人間いつか死ぬとしても、自分はまだ死なないさ。
そう思い込んで生きている。
でももし「思い込んでいる」ことを忘れたら、生きてることを当然のように考えたら、事態は少し変わる。
生が当然だとしたら、明日も当然来ると考える。
明日が当然だとしたら、今日の悔いを繰り越すことを考える。
それを繰り返していけば、「今日」を大事にしなくなる…
それもまた、死んだような生き方だ。

どうせ死ぬなら「Es Ist Gut!」で死ねるのが一番良い。
死ぬ間際に10秒くらいでも人生振り返る時間があったとして、そのときに嫌なことより1つでも多く楽しいことを思い出せれば人生勝ちだと思います。
でもそのときにもし明日に繰り越そうとか考えてた悔いなんかあったら、死んでも死にきれないというもの。
家族におやすみを告げて、布団に入って、瞼を閉じたそのときに、「もしこのまま目が覚めなかったとしても後悔しないだけの今日を過ごせたか?」と問いかけてみる。YESなら楽しい人生送ってますね。

死を恐れたら堕落する。
死を忘れても堕落する。
生死はカードの表裏。近くにあることを忘れてはならないし、怖くても立ち向かわなきゃならない。死と上手くお付き合いすることで生がより強烈に浮かび上がる。
ネガティブに立ち向かう心持ちは爆発的な力を生みます。「死ぬ気で頑張る」という表現もまた言い得て妙というものです。
    
KANI at 23:08
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 プロフィール 
HN:
KANI
年齢:
33
性別:
男性
誕生日:
1992/05/11
職業:
学生
趣味:
陸上、ゲーム
自己紹介:
帯広生まれ帯広育ち札幌在住。
春から筑波大学国際総合学類。

陸上歴12年目。
尊敬する人は為末大。
考えて、実践し、結果を出す陸上が信条です。
人に夢を与える走りをするのが目標です。

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